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後に、ジャコブ、モノーと、二人の先生格にあたるアンドレールウォフの三人でノーベル生理学医学賞を受賞しています。
ジャコブとモノーは、遺伝子の発現の調節について、実験結果にもとづいた新しい理論を出したのです。
それが論文になり、わたしはそれを読んで「すばらしい!」と思いました。
もう一組の研究者も、わたしに大きな影響を与えました。
DNAの二重螺旋構造を解明した、FとJです。
二重螺旋のDNA模型には目を奪われました。
ワトソンとクリックによる新発見は、すでに一九五三年になされていましたし、ジャコブとモノーの新理論は六二年に発表されていました。
その後、アメリカとヨーロッパの研究名たちか、分子生物学の分野でいろいろな研究結果を発表しました。
その結果、分子生物学のセントラルドグマ、つまり遺伝情報がDNAから出発して、RNAに移り、ここで暗号を使ってたんぱく質に置き換わるという一方向のプロセスが、解明されていきました。
まず、DNAのくっついていた二本が離れ、その一本の情報に対応する形でRNAかつくられます。
つぎにリボソームという器官を通じて、RNAの情報がアミノ酸をつくる情報となり、アミノ酸か次々とつながっていくことでたんぱく質ができるのです。
ジャコブとモノーの理論は「オペロン説」といいます。
遺伝子の情報が、RNAを通じてただまんべんなくたんぱく質に伝わるというのではなくて、非常に制御されたプログラムにもとづいて、ちがうたんぱく質がちかう細胞でできてくるのです。
そのおおもとになった最初の理論が、オペロン理論なのです。
遺伝子DNAとRNA、そしてたんぱく質がつくられる、それを調節する調節遺伝子かおる、ということを見事に解明したのです。
彼らは、分子そのものに触れることなく、遺伝学の方法でいろいろなコンポーネントかおるはずだという結論を導き出したのです。
その後、いろいろな人の研究から、この理論の基本的なところがすべて正しいことが証明されました。
わたしはこの論文を読んで、「これはすばらしい。
一生この分野で研究をしていく価値かおる」と思い込むことができました。
わかしにとって非常に運かよかったと思います。
大学の四年間に自分がどうしてもやりたいと強く思えるものが見つかるというのは、その人にとってはほんとうにすばらしいことで、わたしの場合はいま言ったような経緯で、そういうものに遭遇したのです。
分子生物学者になるということになると、化学科の授業をさらに受けたり、卒業研究などをしてもあまり役に立ちません。
わたしはいちおう生化学教室に所属しましたが、卒業研究は一年間何もせず、ほかの学科の遺伝学とか発生生物学など、将来分子生物学を研究するのに役に立ちそうな講義を受けました。
数は少なかったのですが、分子生物学的な研究をしている研究室にお願いして、勉強会に入れてもらって過ごしました。
わたしにとって、もうひとつラッキーなことがありました。
そのときの教授はT先生でした。
田中先生はあるときわたしを呼んで、「君はいったい何を勉強しているんだ」と聞いたのです。
わたしは「分子生物学の研究者になりたいので、それに関連する勉強をしています。
卒業研究はしてもしょうがないのでやりません」と言いました。
そのとき先生は、「君は自分が勉強していることを研究室で発表して、そこそこの線をいっていれば卒業させてやる」と言ってくれました。
わたしは勇んで、研究室で田中先生たちの前で勉強してきたことを発表しました。
一時間の予定を三時間くらいしゃべって、先生たちを煙に巻いて無事卒業することができたのです。
後にノーベル賞をいただいたとき、新聞記者がK大学に行って、利根川はいったい学部のとき何をしていたんだろうといろいろ探したそうですが、何も見つがらなかったそうです。
わたしは卒業研究はしていないのですから、見つからないのはとうぜんです。
とにかく、そういう状態で何となく卒業させてもらいました。
そして、なるべく分子生物学の研究ができる大学院を日本全国を対象にして探しました。
当時は、分子生物学の研究をしている研究室はほんとうに少なかったのです。
大阪大学の蛋白質研究所に、東京大学出身の野村真康というすばらしい若い分子生物学者がいました。
彼はアメリカでトレーニングを受けて、わたしが知った半年か一年くらい前に蛋白質研究所に帰ってきて、研究室をもって研究をしていたのです。
わかしは彼のところに入りたいと思って大阪まで行きましたが、野村さんは「日本で研究してもだめだということがわかったから、おれはアメリカに帰る」と言うのです。
その後、名古屋大学とか広島大学とかいくつか訪ねましたが、結局は地元のK大学のウイルス研究所というところに、これも東京大学出身のW教授がいて、分子生物学のはしりのようなことをやっておられました。
そこへ大学院の試験を受けて入りました。
九六三年の四月のことです。
W先生の研究室にはじめて行くと、W先生がわたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気かおるのか」と言います。
「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言いだしたのです。
ほんとうにやる気かおるのならアメリカに行くしかない。
自分がどこか当たりをつけてやるから、アメリカへ留学しろ」わたしにとって幸いなことに、そのとき助手をしていたYという先生が、アメリカのI大学で遺伝学の大学院を終えて、博士号(phD)を取って帰ってきたところだったのです。
W先生とY先生は、そのときCの一番南、メキシコとの国境に近いサンディエゴというところに新しくできたC大学サンディエゴ校の分子生物学部のボスであるデービ。
D教授に手紙を書いてくれました。
ボナー教授は昔I大学でY先生の指導教官だった人です。
そして、わたしがそこに留学できる手配をしてくれたのです。
ボナー教授から留学を受け入れるという返事がきて、無事五月に留学が正式に決まりました。
そのあとわたしはいっさい研究室には出ず、毎日英語の勉強をしていました。
これから留学しようと思っている学生や研究者は、理科系であってもアメリカで学んだり、研究したりしていくためには英語は切実に重要です。
ある程度会話ができることが必要なので、真剣に準備されることをお勧めします。
こうしてわたしは、南Cが目の前にひらけていました。
実は、このとき正式のキャンパスはまだできていなかったのです。
スクリとフスーオーシャノグラフィーという有名な海洋学研究所かおり、後に併合されますが、そこの建物を借りていました。
大学院の最初の1年間は、その建物で研究をしていたのです。
そこでは、バクテリアに感染するウイルスを材料にして、遺伝子発現の研究をしました。
いまから考えると、ジャコブとモノーの亜流のような研究でしたか、とにかく博士号をえることができました。
ところが、この分野の研究は、現在わたしが籍をおいているZ工科大学や、H大学、C工科大学、S大学というところに非常にすぐれた研究グループがあって、それらのグループから次々とすばらしい論文が出てきていました。
しかも、その筆頭執筆者はほとんどが大学院生レベルの人でした。
それに対して、UCSDはいまでこそアメリカでもメジャーな大学になっていますが、当時はまだできたばかりで、小さいプログラムで、MITやカルテ。
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